2000年の名鉄パノラマカー

レポート

2000年の名鉄パノラマカー

2000年5月、ふとした思いつきのように名古屋へ向かった。理由はただひとつ、これまでなかなか縁のなかった名鉄に乗るためであり、その中心にはパノラマカーの存在があった。

小田急ロマンスカーの展望席にはすでに親しんでいたが、それよりも早く、1961年に登場した名鉄のパノラマカーには、どこか特別な響きがある。先頭に設けられた展望席という発想は、単なる移動のための装置を超えて、乗ることそのものを楽しみに変える試みだった。

モーターリゼーションの時代を見据え、「乗せてやる列車ではなく、乗って楽しい列車を」という思いから生まれたその構想は、遠い異国の特急車両「セッテベロ」に触発されつつ、技術者と愛好者たちの議論の中で育まれたという。そうして生まれた列車が、線路の上に一つの夢のかたちを結晶させた。

実際にその車両を前にすると、ただの鉄道車両という枠には収まりきらない存在であることがわかる。前方へ大きく開かれた窓の向こうに広がる景色は、まるで線路の先へ吸い込まれていくようで、走り出す前から心が少しだけ旅に出てしまう。

遠く名古屋まで足を運んだ理由は、きっとこの感覚を確かめるためだったのだろう。パノラマカーは、乗る前からすでに旅を始めさせてくれる、不思議な列車なのである。

2000年の名鉄パノラマカー

 

2000年の名鉄パノラマカー

 

2000年の名鉄パノラマカー

 

2000年の名鉄パノラマカー

 

2000年の名鉄パノラマカー

 

2000年の名鉄パノラマカー

「展望室を設けた理由」というテーマでは、伊室氏が「1961(昭和36)年の名鉄はモーターリゼーションの時代を見越して、(お客様が)乗ってみたい車両を作れという経営陣の強い意向があり、イタリアの特急車両『セッテベロ』をモチーフとして展望車になりました」と解説。
一方の鈴木氏は「ロマンスカーの転機は1960(昭和35)年です。東海道新幹線の開業前で、新幹線に対抗するには『鉄道の魅力』を高めるべきと考えたのです。最初に小田急は2階建て車両を企画しました。連接型で2両目が2階建てになる構造でした。続いて、運転席を2階に上げての前面展望が検討されます」と話し、パネルに検討写真を掲載。こちらも「セッテベロ」の影響を受けたデザインでした。
(小田急ロマンスカーと名鉄パノラマカーの“中の人”対談 「車体色似てる」質問の答えは(2/4 ページ) | 乗りものニュース)

「乗せてやる列車ではなく、乗って楽しい列車にしよう」。パノラマカーの構想は、鉄道技術者と鉄道ファンがビールを酌み交わして議論する中で育ったと、元大井川鉄道副社長の白井昭さん(81)は振り返る。
 白井さんは名古屋工業専門学校(現・名古屋工大)を卒業して名鉄に入社。1958年から3年間、開発にかかわった。東海地方は59年、死者・行方不明者5千人余の伊勢湾台風に襲われたが、開発がとまることはなかった。「高度成長のパワーに押されるようだった。いまだったらできなかっただろう」
 白井さんにとって鉄道の原風景は市内電車だ。機関車が引っ張る国鉄の列車と違い、市内電車は運転台と前の景色がよく見える。マイカーの普及という脅威も迫っていた。負けられない思いを込め、前面展望車を作ったという。
(asahi.com(朝日新聞社):さよならパノラマカー 名鉄7000系、26日で引退 – 鉄道 – トラベル)

2026年4月29日 2026年4月29日  2000年5月5日